後遺症 生活奪う 沖縄戦訴訟、きょう第1回弁論
戦争体験を伝えるために作成した紙芝居を持ち、
反戦を願う大城安信さん=21日、伊江村の自宅
沖縄戦で被害を受けた民間人やその遺族ら40人が国に対して謝罪と賠償を求める「沖縄戦被害国家賠償訴訟」(命どぅ宝裁判)の第1回弁論が24日、那覇地裁で開かれる。
沖縄戦で旧日本軍が住民を守らなかったことは「不法行為」などとして国に責任を求める。
同訴訟の原告には伊江村の「集団自決」(強制集団死)から生存した1人、大城安信さん(77)も参加。
「集団自決」から奇跡的に助かったが、後遺症に苦しむ。
大城さんは「戦争がなければ後遺症で仕事を辞めずに暮らすことができた」と生活が奪われた現状を訴え、同じように戦争被害に今も苦しむ被害者や遺族と共に声を上げる。
大城さんは戦争当時9歳。伊江村で戦争が激化する中、ガマを転々としながら親戚や防衛隊の兵士らが避難する一ツ岸ガマに逃げ込み、そこで「集団自決」に遭った。
米兵の投降呼び掛けに応じなかったところ、発煙弾が投げ込まれた。
煙に包まれる中で一人の兵士が「今、死ぬから固まれ」と叫び、外の様子を見ていた大城さんの父親と男性を除く24人が身を寄せ、兵士が爆雷を2回、爆発させた。
大城さんと母親の2人が奇跡的に助かったが大城さんは腹部から下半身までけがを負った。
大城さんらは米軍に保護され治療を受けた。その後数年間けがに悩まされたが、次第に日常生活への支障はなくなり、戦後、大工になった。
しかし戦後45年がたった1990年、けがの後遺症が悪化。
足に激痛が走り、薬を服用し続けている。大工も辞めざるを得なかった。医師からは「股関節脱臼」と診断され、完治は難しいと言われた。足を上げることもままならず、つえをついての生活を余儀なくされている。
91年に県に援護法適用を求めたが「今さらできない」と「門前払い」され泣き寝入りするしかなかったという。
大城さんは「援護法の適用を受けた被害者もいる。なぜ自分は受けられないのか」と国に疑問を投げ掛け「私たちの被害回復もきちんとしてほしい」と憤る。
大城さんは自身の体験した戦争被害と集団自決の惨劇を後世に残そうと、5年ほど前に紙芝居を作成、地元の教育委員会を通じて子どもたちへ戦争体験を伝えている。
「当時はいつ死んでもいいと教え込まれていた。
だから集団自決も起こった
。今思うと怖い話だ。戦争は絶対にあってはならない」。
反戦の願いを胸に、老体を押して裁判に参加する。
(池田龍矢)
琉球新報