集落(スマ)を歩く ⑱ 上野新里
「明和の大津波」 後に現在地に移った新里の集落
=上野字新里
上野字新里は、 宮古島の東南海岸平野に発生した古い集落の一つ。 14世紀に船着の便利な地域にあった新里は、 近隣の宮国、 砂川、 友利とともに外国との交易で発達したと見られる。
これらの元島からは土器や青磁などが見つかっている。 新里の海岸丘陵地にある 「アパナギミャーカ」 の古墳墓群は14、 15世紀頃の宮古の墓の形式で、 現在の横穴式墓に移る以前のものという。
海岸沿にあった集落 (新里元島) は、 1771 (明和8) 年に発生した 「明和の大津波」 を境に現在の高台に移った。
宮古島庶民史 (稲村賢敷著) には 「明和8 (1771) 年3月10日、 友利、 砂川、 新里、 宮国の4カ村および多良間島に前代未聞の大津波あり。 波の高さ12、 3丈に達し、 遭難者2548人を出す。 その他船舶76隻破損、 牛馬斃死641頭に及び家屋は倒壊し、 田畠は押し流されて惨状を呈した。 当時の遭難死体は与那覇南浜に合祀し慰霊碑を建てた」 とある。
新里元島は、 東元島と西元島の二つの集落によって形成されていたが、 津波から命からがら逃げた人たちは一つにまとまって、 現在の地で更生の第一歩を踏み出したという。 大津波後、 新しく村立 (すまだて) をしたので 「新里 (あらだてぃ)」 としたのではないか言われている。
大津波では、 当時希少価値で家宝だった石臼について、 次のような記した文面がある。 「人々は津波だと言って逃げたが、 石臼が惜しくて、 とてもそのまま逃げるにはしのびないほど臼に愛着を持った女性がいた。 しかもその女性は妊娠中の身重であるにも関わらず臼を両脇に抱えてエッサ、 エッサと高台地のバルキャまで運んできた」。 その臼は現在まで残っている。
これらの歴史などは、 自治会が発刊した 「あらさと誌」 に収められている。 発刊にあたっては 「現代 (今) を中心にし、 過去を振り返り、 未来を大きく展望し、 創造していく意図を込めてまとめた」 と記している。
現在地の新里は、 自治会を中心に青年会、 婦人会、 老人会、 子ども会など組織がまとまった活動を行って発展してきた。 その拠点となる新里構造センターは1994年に落成し、 同年には新里公園内のゲートボール場のコート開きもあり、 高齢者の健康づくりや交流の場として利用されている。
元島があった海岸線には本土企業によるホテルやゴルフ場などが建ち、 リゾート地として生まれ変わっている。
(文・写真 伊佐次郎、 毎月第1・3木曜日掲載)
宮古新報