登川誠仁さんが死去 沖縄民謡の第一人者
23日に告別式
知名定男さんとの「夢の共演! ふたりのビッグショー! 一回限りの東京公演」、で軽妙なトークで会場をわかす登川誠仁さん=2001年9月5日、東京都内
戦後沖縄を代表する民謡歌手で「セイ小(ぐゎー)」の愛称で親しまれた登川誠仁(のぼりかわ・せいじん)さんが19日午後11時37分、肝不全のため、入院先の沖縄市内の病院で死去した。
80歳。兵庫県生まれ。石川市(現うるま市)で育った。
告別式は23日午後3時から4時、沖縄市松本7の5の3、
サンレー中部紫雲閣で。喪主は長男仁(ひとし)氏。
父親の影響で幼いころから三線に親しみ、「早弾きの天才」として脚光を浴びた。62年設立の琉球民謡協会の評議員に就任し、同会師範としても、民謡ブームをけん引した。
70年には民謡では初めてという声楽譜付き工工四(くんくんしー)を発刊。
「歌の心」「豊節」など自作の歌も多く、レコードやカセットテープ、CDなどは100点以上に上る。
泡盛が好きで、ユーモアにあふれ人なつっこい言動からファンも多く、沖縄発の映画として全国ヒットした「ナビィの恋」(1999年)で、平良トミさんの夫役として存在感を示した。知名定男さんや徳原清文さんら多くの弟子も育てた。
89年県指定無形文化財「琉球歌劇」保持者、98年琉球民謡協会名誉会長。2002年沖縄タイムス賞文化賞、沖縄タイムス出版文化賞、12年県功労者表彰。
ここ数年は体調を崩すことが多く、入退院を繰り返していた。
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沖縄市松本にある登川さんの自宅には20日午前から、門下生や親しい人たちが集まり、別れのあいさつをした。
琉球民謡登川流研究保存会の徳原清文会長は「14日に病院に見舞ったときには、痛みもないと指を動かしていた。弟子には厳しい人だったが、稽古が終わると陽気で、楽しく酒を飲んだ。まだまだ元気に活躍してほしかった」と惜しんだ。
昨年、登川さんら沖縄市にゆかりのある民謡歌手の写真展を企画したキャンパスレコードの備瀬善勝社長は「県内のいろんな地域に伝わる歌に自分なりの味付けをして歌うなど、沖縄民謡全体の掘り起こしに関わった功績は大きい」としのんだ。
近所に住む女性は「よく家の前で雑談した。地域の祭りや行事にも積極的に参加し、歌三線を披露して、みんなに愛されていた。とても残念です」と声を落とした。
沖縄タイムス