「四島の主の墓」修復
一括交付金を活用して修復が行われた 「四島の主の墓」
=平良狩俣
宮古島市教育委員会は、 国の一括交付金を活用して平良狩俣の 「四島の主の墓 (ゆすまのしゅうのはか)」 の修復を行った。
入口両サイドや周囲の石積みを取り外したあと、 石積みを圧迫しているアコウなど木を伐採し、 再び石を元の場所に戻した。
同委員会文化財係によると一部修復はあるが、 市文化財の石積み全体を解体して修復するのは初めてだという。
狩俣の 「四島の主の墓」 は4カ所あると言われる。 その一つの墓は県道保良西里線 (狩俣線) の島尻集落へ抜ける場所から狩俣中学校に向け約200㍍付近の島尻、 大神、 狩俣、 池間が見渡せる丘陵地にある。
同委員会文化財係によると、 墓は木々に覆われ、 アコウの木などで石積みが押され、 石が抜け落ちている箇所もあったことから、 「このままでは台風などで石積みが崩れる」 と判断し、
924万円の予算が投じられ解体しての修復が決まった。
修復は沖縄本島内の専門業者が担い、 5カ月間で取り外してから測量、 周辺の整備などをして再び石積みが行われた。
同委員会が発刊した 「文化財」 では、 「構造はツガ墓に似ており、 周囲には石積みの外郭が二重にめぐらされ、 南南西に向かって一枚岩を載せたアーチ門が築かれている。
墓室は一室で墓口が2つ設けられており、 近年まで 『四島の主』 の子孫により代々使用されてきたと伝えられている」 とある。
四島の主とは狩俣、 島尻、 大神、 池間村の支配者の俗称で、 「雍正日記」 には 「昔、 狩俣四島の親童名百佐盛と申す人は狩俣、 島尻、 大神、 池間合わせて四カ村壱人にてあつかい候に付き、 四島之親と偽申由候」 と記されている。
また 「四島の主あやぐ」 には 「何からが如何からが親なたよ、 墨からど筆からど親なたよ」 と歌われており、 文筆に優れていたことが伺える。
また仲宗根豊見親の支配下で仁政を施し、 業績としては狩俣・島尻を結ぶ 「渡地橋」 築造のほか農道の改修、 狩俣・平良間の休憩所設置及び井戸の掘削などが伝えられている。
宮古新報